2016は動画の年?じゃなかった

今年も残り3日ほど、私から見た2016年は、インターネット動画の加速した年であったと思います。それは携帯端末の映像記録機能が格段に向上したこと、そして手軽に編集ができるよいになったこと、加えるなら自分の画像をアウトプットできる場所が一般化したことです。

「おでんツンツン男」は記憶に新しいとは思いますが、映像は誰でも主役になれ、誰でも撮影と編集ができ、誰でもアウトプットもできてしまうものになったのです。その映像は4Kクオリティで、テレビCMよりも素早く制作編集ができ、低コストで自らの意思で多くの人が見る可能性を持ち、同時に批判も賛同も得られるものになっています。こんな自由、今までにあったでしょうか。

昭和の時代、若者たちの自由の象徴は「車」でした。車は自分の行きたいところへ、自分の行きたい人と、自分のコントロールで行ける、まさに自由の象徴であったと思います。

いま若者は「車離れ」を起こしています。車業界は「若者に車を」と、躍起になって広告代理店に施作を提案させ実施させています。大手代理店はそれを推進しながら、その一方で、今後のメインストリームはネット・SNS、動画・VRであるとして参入に躍起になっています。この背反する活動が、時代が新しくなる邂逅であることを示しています。代理店は顧客の代理ですから実に率直に世相を示す機能でもあります。広告代理店は時代の先取りのような企業イメージを受けた次代もありましたが、今は本来の使命である、お客様の代理に徹することで、かろうじて名目を保っています。それが車の広告施作とネット施作に現れています。

一方、米国に目をやれば、米国大統領選挙結果は古き良き時代を取り戻す、多くの白人中流層の願いの結果ですが、時代は元には戻らないのではないでしょうか。先の「車」の例のように、経済の動きに歯止めは掛けられないと思いますし、広がったネットワークに国境は設けられない。もしそれを無理にすれば、彼らが批判する中国、北朝鮮と同じような統制国家を建設しなればならないことになります。トランプ氏は選挙の顔と実際の政治は違うと賞賛されていますが、進んでいる車にバックギアは入らないのだと思います。マルクス経済は批判に耐えられず死滅したと思っていたのですが、下部構造が上部構造を規定するという法則に従っているのが今の時代のようにも思えます。

さて今年一年を「WEB映像の加速した年」と思ったのは、現在の「自由」の象徴は「アクセス」にあり「つながる」ことにあると思ったからです。インターネットはビジネスモデルを変える産業革命だと言われたのは1995年くらいのことだと思います。しかし変えたのはビジスネスタイルでなく、「自由」の概念であったと思います。今後、もっと映像表現はネットで拡散すると思います。それは映像がそもそも直感的で、撮影機器の性能向上で誰もが扱えるようになったことで、自己の存在価値を示し、孤独感を払拭するためにもネットにアクセスする手法として拡大すると思います。映像の目的は、ネットへのアクセスツールであり、突き詰めれば、誰かとつながるツールだと思います。

私たちは映像制作のプロフェッショナルです。そのポジションで私たちの携わる企業の映像を考えると、本物・ミッションが問われる時代に入ったと言えます。映像は率直な表現です、CMのように全て演出なら別ですが、企業がネットにあげる映像は、商品の機能のみでなく企業の姿もリアルに現れてしまいます。私たちはレンズを通じて企業のリアルな姿を伝えることが映像制作のプロとして問われることだと思います。

2017は、オールクリエーターとオールミッションの時代。正直な姿を映し出す映像は、今年以上にその機能を全開にする年になると思います。

本年はありがとうございました。

2017年もよろしくお願いいたします。

記 hirashita

 

川口監督ドキメンタリー試写会 作品名「彼らの原発」(仮題)

物語は福井県おおい町の原発周辺で暮らす人たちの2104年の話である。2011年東北で大地震が起こり、絶対に壊れることはないと言われた原子力発電所がメルトダウンを起こし、直後東京に住む多くの外国人が避難し、夜になると東京の灯りは消えてしまい、首都東京も住めなくなると多くの人たちが思った。

そして震災からの復興と同時に、原子力発電所の再開の話が政府から出始め、2013年9月オリンピック誘致の成功、安倍首相が「under the control」と世界に発言し、原発事故は終焉したと多くの人たちが思った2014年の原発の町の話である。しかし2016年の今も世論調査では多くの人たちが原発の再稼動に反対している中で「おおい原発」は日本で最初の再稼動原発になると位置付けられ、日本の視線が集まる町になった。その町に監督は入り込んだ。

この作品を見る前私の予見は、映画は原発には否定的な作品であると思い込んで試写会に赴いた。また、二時間を超える長さ、ドキュメンタリーとしては中だるみ、飽きがくるのではないかとも思ったが、その二つの予見は見事裏切られることとなった。多分監督もアンチ原発という姿勢で取材を始めたとは思うが、原発の町で暮らす人たちへの取材の中で、迷いに苛まれているのが感じられた。私もどちらかと言えば反核・反原発の意見だとは思うが、この映画の途中から、反核・反原発の話は地元が原発の存在を認めるのか、認めないのか、という話ではないと気がつき始めた。

そして監督はカメラを持ち町民の日常の中にどんどん入り込み、今もなお細々と守られている地域の習俗、宗教、そして生活の糧を得ることに触れる中で、原発の問題は、都心で暮らす私たちの切実な仮題であり、日本の将来の仮題であると思い始めていた。

最近、福島から離れて生活する小学生が「バイキン」と呼ばれ、いじめられ、「保証金があるだろう」とタカられ、教師までが「菌」と呼んだ報道が紙面を飾っている。しかしこれは原発に反対する人の多くにある話ではないかとも思った。それは「原発を成立させているのは地域の金銭エゴ」だと思っいる人は少なくないと思う。地元が反対すれば原発は無くなると思っている。でも回答は簡単だ「沖縄を見ろ」である。沖縄県民はほとんどが基地の存在に反対し撤去を訴えている。「お金をあげているだろう」「減らすぞ」という政府の態度には誰も屈していない。米軍基地も原発も地域の問題ではないと思う。「代償としてお金をあげている」という都市に住む人たちの目線が、福島出身いじめを生んでいるのではないかと思う。その映画はそんな観念を真っ向から打ち崩してくれる。それは監督の意図したものではなく、町民の言葉、表情から伝えられるメッセージだと思う。私も映像を生業としているが、書籍や文章でメッセージするのと、映像はどこが違うのかと問われた作品である。町民の表情、監督の視線、監督の問いかけ。

米国ではトランプが政権を握り、韓国でも大統領が失脚し、ヨーロッパでもその兆しが見えている。マスコミはポピリズムの台頭として警戒感を持って論じているが、ナショナリストの台頭は反グローバルではなく、もはや「今の体制では幸せになれない」、という市民の声ではないだろうか。トランプに対峙していたのはクリントンではなく、本当は社会民主主義者のサンダースではなかったのか。いまナショナリズム旋風が世界を席巻しているのは事実であるが、それは「変革を望んでいる」声だと思うしそれは社会民主主義という選択もあるのである。とても大きな話になったが、この作品はおおい町の生活を通じて私にそんな問いかけを忍び込ませた。2014年という少し前の取材であるが、いまの仮題をとても穏やかで戸惑う町民たちの表情が伝えてくれる映像の力を示してくれた作品だと私は思った。是非この作品が全国で上映されることを望む。

 

記hirashita@impc.jp