空

黙祷……3.11(東日本大震災)を想う。

こんにちは。インターンの根本です。

 

 

今日は3月11日です。

4年前の今日、14時46分、世界中を震撼させた東日本大震災が発生しました。

その一時間後には、福島第一原子力発電所はメルトダウンし、

後に、INESから至上最悪のレベル7の被害と位置づけられてしまいました。

新聞のトップ記事にでかでかと載った瓦礫や火、津波や強い揺れがもたらした人知を超えた被災の痕を見て、

ようやく実感が湧いてきたのを覚えています。

 

東日本大震災の発生時に「何をしていた? 」と聞く光景が、以来、よく見かけるようになりました。

インタナシヨナル映画会社は、当時は新橋にありました。

その頃、私は当然いませんし、スタッフの顔ぶれも現在とけっこー違ってたようです。

 

「あの日から何年経った……」「あの日、あの時、何をしていた?」

そんな言い回しが聞かれるようになる度に、胸がちくりとします。

 

震災の深夜、3月12日になる頃に、私宛にオーストラリアのホストファミリーから一通のメールが届きました。

「大丈夫か? 無事だったら、どうか返事してください」。そんな内容でした。

当時、睡眠薬を処方してもらっていた私は、とにかく自分が眠ることしか頭にありませんでした。

なにやら大変なことが起きている……でも、眠い。

 

しかし、そのメールを見て、ショックを受けました。

「私より遠く離れている彼らの方が、意識が高いな」と。

しかも、皮肉なことに、私はその瞬間に誕生日を迎えました。心に押しやっていた不安が顔を出し始めました。

 

一方、海外からのメールを頂いたのは、私だけでなく、インタナシヨナル映画会社も同じだそうです。

海外広報に力を入れてる関係もあって、仕事仲間からの安否を問うメールが来たようです。

読み手も少々、驚くほどの心配ようだったとか。

海外の人にとっては、関東だろうと九州だろうと関係なく、

切実に日本に住んでる人たち全員をえらく心配したのでしょう。

 

日本にいた私たちは確かに、あの大震災を体験しました。

あの災いの残酷さを嫌というほど連日の報道や、街の空気で思い知ったはずです。

しかし、生きる手段や糧を文字どうり、奪われた人たちの切実さと脳内に残った臨場感を

誰もが持っていると言ったらそれは嘘になると思います。

 

悲しみの共有とは、平等ではありません。

東日本大震災に限らず、9.11テロ、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、新潟県中越地震において、

その場にいた者、近くにいた者、遠くにいた者、当事者と関わりのある者と――――

悲劇との距離は、人の数だけあります。

胸に抱える悲しみの重さもまた、それに伴って、人それぞれです。

 

そんなことを教えられたよう思いで、私はホストファミリーに次のように返信しました。

「Thank you !  I and my familiy are OK .In fact, today’s my birthday . So your mail is my birthday present. 」

(ありがとう!私も家族も大丈夫です。実は今日、私の誕生日なんだ。 だから、このメールは誕生日プレゼントです)

 

誕生日をhappy とは形容できません。

ですが、こんなドライな現実から目をそらすのは、逆にエゴだと思ったのです。

当事者のためにできることは、先に述べたような、悲しみの隔たりを縮めるために行動することだと思いました。

だから、募金への協力、ボランティア活動はそのためにしました。

 

 

 そして、今年の3月11日、

渋谷区の明治神宮前のインタナシヨナル映画会社にいて、新た思うことがあります。

メディア――テレビ、雑誌、新聞、ネット、ラジオ、語り部、写真、遺品――こそが、

「悲しみの隔たり」をこれでもかと訴える最強の手段の一つだということ。

IMPCの創立者、陸奥イアン陽之助ならば、いつまでもこの切実さを失わないためにも

「世界に日本を伝え」ろ、と言うではなかろうか。

 

そんなこと思いながら、黙祷……